八雲の愛した石狐の復元をめざす会
城山稲荷神社


由緒

ホーランエンヤ
(日本三大船神事)


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八雲の愛した狐


初代石狐

ご神宝

小林如泥

復元にあたって


小泉 凡さんより
(八雲ひ孫)


宮司様より

 


ホーランエンヤ


(社務所発行の由緒より転載)

 

 

山陰本線東松江駅と揖屋駅の間の出雲郷(あだかい)というところに阿太加夜神社(芦高社とも言った)がある。松江城築城の際に天守の鬼門に当たる石垣が崩れ、築きなおしてもまた崩れるので、二夜三日の地割祈祷、今で言う地鎮祭を行った後、石垣が完成したという。その祈祷を行ったのが、この阿太加夜神社の神主松岡兵庫であって、若宮八幡(当社)の神主を兼ねていた。そしてその松岡氏が維新まで代々当社の神主を兼ねてきたのである。

 当社の御神輿を、その阿太加夜神社本殿へお迎えして、7日間の大祈祷を行い五穀豊穣災禍防除世の中が平和に繁栄するよう祈願する式年神幸祭、通称ホーランエンヤは日本三大船神事の一つと言われる大盛儀である。

 

 岸辺の葦も新芽を萌す5月、12年目毎に松江の堀川にくりひろげられる錦絵巻、それは神国の水都松江に、いともふさわしく絢爛たるうちにも、神を敬う松江人の気持ちがよくあらわされていて、見る人をして敬虔に導く事を忘れさせない。

ホーオーエンヤ
ホーランエイエ
イヤサノ サツサーノ
ラノランラン

 灯ともし頃の大橋川を伝ってかすかに神幸祭の稽古をする若人の船歌が流れてくるとき、人々の心は不思議な血の騒ぎを覚えて、ときめく。・・・・年寄はありし昔を想起し、若人は眼を輝かせてその話を聞くのだ・・・

 12年目でないと行われないだけに、こまかな事は忘れ去られて、いつしか想い出は益々美化され、松江の人の心に強い憧れをもって、もちつづけられてゆく。

 これは去る年の神幸祭の新聞記事だが、昭和33年迄は市内の堀川を巡って大橋川にでた船行列も昭和44年の場合は、も早やどうしても堀川を通る事ができず陸行列を松江大橋北詰迄延長、ここから御乗船となって城下町の堀川での船神事の風情は味わえなくなり、代りに大橋川で繰り広げられた神事も華麗豪壮であった。

 当日早朝当社に於いては斎主永岡宮司をはじめ両神社の祭員30名によって祭典を行い、古調床しい神楽の旋律につれ御神輿は老松を洩れる淡い陽射しをうけて新橋、北堀、北殿町の各初午講中に舁がれて御進発、錦旗、道樂、錦蓋等の威儀物、市長、議長、会頭、総代等の供奉員前後に奉仕して、殿町、京店と本通りを進行、大橋北詰桟橋から金色の千木勝男木をつけた屋形に葵御紋の紫幕を張り、社名旗、錦旗、真榊に飾られた御座船に移御、宮司祗候しその前後に典儀船、護衛船、神樂船等、祭員は狩衣、船長係員は侍鳥帽子に直垂、船頭は布衣、それぞれの船に金銀御幣、真榊、吹流し、五色旗を立てた10隻の神輿船団を中央において、呼び物の櫂伝馬、馬潟、矢田、大井、福富、大御崎各各の船団が大ボンボリや稲荷大明神の大のぼりを立て、美々しく飾った伝馬船に三番隻姿の烏帽子を振りたて子役が叩く太鼓にあわせ、揃いの衣装の若人が櫂を漕ぎつつ高らかに唄うホーランエンヤで歌舞伎姿の男役は舳(みよし)で剣櫂を、女役は艫(とも)で采をふりながら一糸乱れぬ踊り姿を水に映し神徳を讃え、2回、3回と川面を回遊する。いつの時にもこの日ばかりは必ず晴天無風の神威が実現し新聞社やテレビ局のヘリコプターやセスナ機が旋回する。湖畔に立て並べられた奉賛の赤ノボリが薫風にはためく。いつしか船列は大橋、新大橋を東へと組み立てられて、大根島、意東、島田の鼻曳船団、大御幣をたてお祓いの祭員座乗する清目船阿太加夜神社氏子各地区の奉迎団、櫂伝馬船団、一ノ向船団、神輿船団、供奉船団、賑やかな御神楽にのって鬼面が剣をふるって舞う神能船団、最後は押幣船。これに列外の本部船、連絡線、警察船、救護船、報道船等を加えて100隻を超える大船行列は20万人の人々の瞳を300年の昔に引き戻しつつ大橋川から中海へ陽光きらめく波頭と眼に染むばかりの新緑の中を、さらに出雲郷川を遡り両岸から湧き起こる奉迎のかしわ手の音のうちに再び陸行列となる頃は、さしもに長い春の日もたそがれの影一足毎に濃くなり、阿太加夜神社本殿に御神輿を奉安して祭典が終わると午後7時を過ぎる。翌日から7日間祭典を行うが中日は再び5組の櫂天馬が参拝して大祭を行い、9日目が還御祭で、これは式次第、順路が逆行するだけで、すべて初日の渡御祭と全く同様で、初日の盛儀が拝めなかった人々にはこの還御祭で全く同様の美観を拝むことができる上に、櫂伝馬5組は当社社頭迄供奉し、神前に最後の踊りを奉納する劇的な感激場面もあるわけである。

  これは昭和44年挙行の模様であり、その後もほぼ同様であるが、旧松江市誌に載っている安政5年の神幸式次第はもっと大きく、船数も人数も数倍になっている。もっとも今日でも列外の拝観船を数えたらきりがない。

 

 

 ところでこの祭りもまた創作した伝説が多く、お稲荷様と言えばすぐ狐を連想して、もっともらしい話がつくられたらしい。おそらく松江の人に聞いてみれば、いろいろ違った説明をするだろうがここにその起源を明らかにしておかなければならない。

 弘化4年3月の日付で翌年執行すべき神幸祭のため、神主が出雲国内十郡へ発送した寄付募集趣意書が現存する。

  ・・・上略・・・直政公このお国のつかさとなり、お国に入りたまいけるに、10年に当たれる年、わけて風雨時ならず、五穀豊かならざりしかば、仰せごとありて御城内正一位稲荷大明神を芦高社に勧請し奉り、国のうち風雨順時して、五穀の稔り豊かならむことの祈祷をなすべしとのたまう。しかしより以来10年の星霜をふるごとに、国御太守・・・・中略・・・・末繁り栄えたまいて、五穀よく稔り、諸の蒼生に至るまで思はざるの災なく、世のやすく穏やかにありなむことを祈祷もうす・・・・・下略

これが最もよく起源を明瞭に物語るものである。そして江戸時代後期になり、10年毎が12年目毎になった。また先に一寸ふれておいた別当があること。これに依って神主が本務社へ勧請して祈祷を行った事情もあるが、その当時の一藩の運命はただただ米が豊作か凶作かに凡てがかかっていたわけで、現在ではもっと広く”諸の蒼生に思はざるの災なく、世のやすく穏やかならむ事”を祈念するためであって、決して怪異な伝説に基づくものではない。

 尚、全国にもこれに似た踊りや唄があるが、詳細に見れば5組の櫂伝馬それぞれに伝統があって、踊りの所作も異なり、唄も、流し櫂、踊りの時、上陸時等数曲に分かれており、技術、衣装、規模などおそらくこれ以上のものは無いだろう。

 テレビの実況中継、ニュースの全国放送等で松江の観光宣伝に大きな役割を果たしたこの祭りも、両神社や櫂伝馬関係で多額の費用を要する大掛かりなものであるが、その霊験は、たび毎に確認されつつ、先人の真剣な祈りが遠い将来へも踏襲されていくに違いない。

 



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